違和感のある空気に支配されないためには、ゆるやかなつながりを持つ。
日本のコミュニケーションの仕方について、違和感を覚えていたので、この記事を書いてます。
日本人のコミュニケーション方法は、自分に気持ちの良いコミュニケーションしか行わないと言われているようで、たとえば、、、
近所づきあい。
親戚づきあい。
近所付き合いでいえば、ご近所と同じ団地で同じような家に住み、同じような家庭環境や車に乗っていることが、正しいとされ、その人たちよりもいい家、いい車に乗っているだけで、「あそこの家は金持ちだから。。。」と言ったひがみ根性が全開になる。
また、親戚づきあいとはいうと、血が繋がっているからという理由だけで、自分たちの考えを押し付けたり、押し付け合ったり。と、もし他人同士であったのであれば、考えられないようなことになりますが。。。
それが、その場の”空気”という形になって、場を支配してしまっていて、例えば、「空気よめ」とか「KY」といった言葉は、このコミュニケーションの延長線上ではないかなと思います。
その空気に支配された空間を世間と呼び、その世間を日本人はとても大事にする。
その世間を守るために、そこに所属する人たちのために場所取りをして、自分の所属する世間の外にいる人に対してはお構いなし。
でも、その行動をしている人は決して、悪気がある訳ではなく、自分が所属している世間の人たちをサポートしているだけという感覚なんだと思います。
このような感覚を世間と社会という分け方をして、説明した「空気」と「世間」の著者である鴻上尚史氏は、不安感を感じる人ほど世間の匂いを敏感にキャッチをしようとする。マスコミに作られた偽造の世間であっても、その空気をキャッチしてそこに従おうとする。と言っています。
学校や職場、家庭で作られた世間の中にいることに違和感を感じるのであれば、自分がゆるやかにすごせる範囲で複数のつながりを持つことが必要ではないかなと思いまづ。
それが、この国で世間に支配されず自分を保つ唯一の方法かもしれない。